挨拶は明るいのに、玄関を閉めるとどっと疲れていた
このマンションに越してきて、もう十年以上になります。長く暮らすあいだ、ご近所づきあいにはずいぶん助けられてきました。けれど、いつからか私は、ある奥さんと立ち話をしたあと、玄関を閉めると決まって、どっと疲れている自分に気づくようになっていました。
親しみやすい、ありがたいご近所さんでした
引っ越してきたばかりのころ、右も左もわからない私に、いちばん親切にしてくれたのが、向かいのお宅のHさんでした。ゴミ出しのルールから、自治会の付き合い方、近所の病院やお店のことまで、こまごまと教えてくれます。「困ったことがあったら、いつでも言ってね」。その言葉に、どれだけ救われたか。
エレベーターで会えば立ち話に花が咲き、いただきもののお裾分けをし合う。知らない土地に、こんなに気さくなご近所さんがいる。私は運がいいと思い、Hさんとの立ち話を、いつしか楽しみにするようになっていました。
立ち話のたび、なぜか値踏みされている気がして
最初に「あれ?」と思ったのは、新しい車を買ったときでした。「あら、いい車ねえ。ローン、大変じゃない?」。褒めているようでいて、こちらの懐をのぞき込むような響きがありました。
持ち物のことも、よく話に出ました。玄関先に置いた鉢植えや、宅配便の箱まで、Hさんはさりげなく、でも確実に目を留めていきます。「最近よく届くわね、何を買ってるの?」。子どもの進路の話になれば、「息子さん、どちらの大学だったかしら。あら、そう……」と、ひと言のあとに置かれる短い間が、なぜか心に引っかかりました。
決定的だったのは、噂のことです。あるとき私が、夫の体調のことを少しだけHさんに打ち明けました。その数週間後、別の階の方から「ご主人、お加減どう?」と声をかけられたのです。あの話をしたのは、Hさんだけだったのに。子どもの就職が決まらず気をもんでいることも、いつのまにか、ちょっとした噂になって近所をめぐっていました。
感じのいい人だから、考えすぎだと思いました
それでも私は、「考えすぎかもしれない」と自分に言い聞かせていました。Hさんは親切な人だし、悪気があって言っているわけではないのだろう、と。
ご近所さんと角を立てれば、これから先、顔を合わせるたびに気まずくなってしまう。長くここで暮らしていくのだから、と思うと、何を言われても感じよく受け流すしかありませんでした。引っかかりに名前をつけられないまま、私はただ、立ち話のあとの疲れを、年のせいにしていたのです。
気づいたのは、玄関を閉めたあとの自分でした
流れが変わったのは、ある日の立ち話のあとでした。玄関を閉めて、ほっと息をついた瞬間、自分が知らないうちにずっと身構えていたことに気づいたのです。楽しく話していたはずなのに、頭に残っているのは、値踏みするような視線と、筒抜けになった家のことばかりでした。
相手の一言を一つずつ責めるより先に、私は自分の状態に目を向けてみました。Hさんと長く話した日は、決まって気持ちが重い。逆に、ほかのご近所さんと挨拶だけ交わした日は、そんなことはない。同じご近所づきあいでも、あとに残るものがまるで違っていたのです。
カレンダーの隅に、ここしばらくの出来事を書きとめてみました。値踏みされた持ち物、子どもの進路への短い間、筒抜けになった夫の話。点と点が、線になりました。感じはいいのに、一緒にいると自分が削られていく。そういう人をフレネミーと呼ぶのだと、いつか何かで目にした気がします。その言葉が、ずっと名前をつけられずにいた疲れに、ようやく一つの形を与えてくれました。
挨拶は明るく、打ち明け話はしない
気づいてから、私が決めたのは一つでした。Hさんを嫌いになるのはやめよう。でも、わが家のことを渡しすぎるのも、やめよう、と。
会えば今までどおり、明るく挨拶します。ご近所さんとして、必要な情報のやりとりはきちんとする。けれど、家計のことや家族の悩みといった、噂の種になる話は、もう打ち明けないことにしました。立ち話で踏み込まれても、「おかげさまで、ぼちぼちですよ」と笑ってかわして、長居しない。値踏みするような一言には、「そうなんですよ」とだけ返して、深くは相手をしない。
立ち話そのものも、少しずつ短くするようにしました。エレベーターで一緒になっても、用事を理由に、さっと切り上げる。最初はそっけなく思われないかと気になって、つい長話に戻ってしまう日もありました。それでも、どのくらいの距離なら自分がすり減らないかを、少しずつ確かめていきました。
肩の力が抜けた、今
劇的なことは何も起きていません。Hさんが変わったわけでも、ご近所づきあいをやめたわけでもありません。今でも会えば、にこやかに挨拶を交わします。
変わったのは私のほうでした。値踏みするような言葉を向けられても、前ほど気にならなくなったのです。「そういう話し方をする人だ」と、少し離れたところから眺められる。家のことを詮索されても、話すか話さないかを決めるのは私だと、もう知っています。玄関を閉めたあとにどっと疲れることも、ずいぶん減りました。
距離を取るというのは、ご近所さんを邪険にすることではなく、自分の暮らしの内側を、自分の手元に守っておくことなのだと、今は思います。挨拶は感じよいのに、なぜか会ったあとに疲れてしまう——そんな相手に心当たりのある誰かに、この感覚が少しでも届けばうれしいです。
※ プライバシーに配慮し、内容を構成しています。
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